2024年9月

3月に早稲田大学を退職してからの半年は、大学での残務整理的なこと(論文審査など)を行いながら、取材の準備をしてきました。ぼくはもともとフリーランスのジャーナリストだったので、生活スタイルを元に戻しただけで、大学を離れたことに対する心理的な「喪失感」はないのですね。

これからは「何を取材するのか」だけを考えればいいので、いろいろ楽しみですね!むろん、関心のあることすべてに関わることはできませんから、いろいろ理屈をこねて優先順位を付けるというより、とりあえず、気持ち(こころ)の動くことから手を付けようと思っています。

8月はBlogで取り上げた瀬戸正夫さんのドキュメンタリーをタイ・バンコクの日本人会で上映。コロナで中断していたこともあり、6年ぶりのバンコクでした。毎日10キロのランニングを欠かさなかった瀬戸さんも93歳となり、視力が落ちてきて、上映会上にいてもドキュメンタリー映像そのものを観ることはできていなかったのかな。耳は大丈夫だったので、内容はわかったはず。

上映会の後はミャンマー(ビルマ)国境のメソットへ。この町と国境周辺には数万人、10数万人のミャンマーからの避難民がいます。メソットを訪れるのは20数年ぶり。たくさんの人と会えたので、ミャンマーの現状を把握することができました。これも詳しくはBlogで書きますね。

今後は11月にパレスチナ、12月は長崎で「戦争の加害」について取材する予定です。その後、もういちどメソットに戻り、タイ・ミャンマー国境を歩きます。

9月25日は特別な日 アグスのこと

毎年9月25日はぼくにとって「特別な日」です。東ティモールで反独立派の民兵に射殺されたアグス・ムリアワンの命日です。アグスはアジアプレスのメンバーで、1999年9月25日、騒乱状態の東ティモールを取材中、インドネシア軍に要請された現地の民兵に7人の教会関係者とともに殺害されました。

当時、スハルト独裁政権の終焉をきっかけに東ティモール独立へ事態は動き始めたため、ぼくと綿井建陽とアグスの3人で東ティモールでの取材を始めたのですね。

ジャカルタにいた綿井から「アグスが亡くなりました」という電話を受け取った時、頭の中は真っ白になりました。外電などをチェックすると民兵による襲撃で殺害された8日の中に「記者」も含まれているらしい、とのニュースも流れていました。

騒乱状態の東ティモールからは外国のジャーナリスト、国連関係者たちは撤退しており、事実を確認する術はありません。

すぐにアグスの故郷であるインドネシアのバリ島へ向かい、綿井とカンボジアで取材中だった和田博幸、それにアグスの友人の本郷由美子さんたちと合流。アグスの家では、両親や兄弟姉妹、婚約者、親戚など数十人が集まり、ぼくたちの状況説明を待っていました。ぼくの人生でいちばん辛い時間でした・・・。

アグスはまだ26歳。東京大学にも留学経験のある、大きな可能性を備えた青年でした。家族の嘆き、悲しみは言葉にはできないほど深いものでした・・・。

東ティモールへの航空便は停止されていたため、東ティモールへ渡航する方法は多国籍軍として兵士を派遣するオーストラリア軍の輸送機に乗せてもらうか、国連の救援機に同乗させてもらうか。バリ島からオーストラリアのダーウィンに向かい、数日間の交渉の後、国連食糧機関(WFP)の輸送機で東ティモールの中心都市ディリへ。

ディリからは国連のヘリコプターで第2の都市バウカウへ。アグスが宿泊していたバウカウの教会で事件の事実関係の説明を受けた後、WFPの車に乗せてもらって、殺害現場へ。

アグスたちの乗っていた車は崖下の川の中に残されており、現場には薬きょうも散乱。車で1時間ほどの教会に作られた仮設の墓地も確認。墓碑銘にはAGUSの文字が記されていた。

遺留品の中にアグスの持っていたアジアプレスの記者証や最後まで撮影に使っていたビデオカメラもあった。アグスの死を受け止めねばならない・・・。言葉はありませんでした。ただ沈黙するだけでした・・・。

その後、何度も東ティモールへ通い、暫定統治している国連機関の了承を得て(検視が終わっていなかったため、遺体に触れることはできなかった)、2002年、ぼくと綿井、アグスの弟、婚約者たちで仮設墓地に埋葬されていたアグスの遺体を掘り返して海岸へ運び、荼毘に付しました。
遺灰は故郷バリ島のサヌール海岸沖で海に流しました。

母親の経営する食堂の前で。アグス・ムリアワン 1999年